2025年度 卒業礼拝が行われました
マタイによる福音書 28章16~20節 「祝福と派遣 ~未完成のままで ~」
3月12日(木)に、25年度生の卒業礼拝が行われました。
本学で学ばれた桜井聖愛教会牧師の大澤恵太先生が、「祝福と派遣 ~ 未完成のままで ~」と題して、学生たちの心に残るお話しをしてくださいました。お話しの概要は以下のとおりです。
<序論>
数日後に卒業を控えておられる皆さんと過ごす、この卒業礼拝にお招きいただき、大変光栄に思っています。残り少なくなっている学生期間、おもいっきり楽しんでください。そして、そこで笑って過ごす皆さんと同じ笑顔を、こんどは子どもたちに、たくさんつくってあげてほしいと思います。 私には子どもが3人います。今の学年で言うと、小1、小3、そして卒業を控えた小6です。下2人は男の子なのですが、特に男の子たちは、「見てて」とよく言います。何かすごいことを見つけたのを共有したくて、あるいは、ちょっと頑張ったのを見てほしくて、子どもたちは「見てて」と言います。それで、「これ、おもしろいね」「お、すごいなあ」というと嬉しそうにして、それ以上何かを言うわけではありません。そんな子どもたちを見ていると、色んな瞬間に「見てて」と言いながら、その指し示している何かというよりは、自分のことをパパに見てほしいんだなと思います。そんな思いを、私は父親として大切にしたいと思います。 皆さんも、実習の中で「見てて」というのを聞いたかもしれません。あるいは、これからもたくさんの「見てて」を聞くことだろうと思います。ある意味で、保育というのは、子どもたちの「見てて」に答える働きでもあります。そんな現場に遣わされていく皆さんに今朝お伝えしたいのは、皆さんご自身が「見てて」と言える存在を見つけてほしいということです。 先ほどお読みいただきました聖書の箇所は、イエスの弟子たちの卒業礼拝のような場所です。イエスが十字架で死なれ、三日目によみがえられた。この復活を通して、イエスは神だったのだということが証しされた。そんな転機的な出来事が起こった直後のことです。ガリラヤという場所に弟子たちを集め、イエスがここから弟子たちをすべての⺠族に、全世界に出ていくようにと派遣したのです。そんな彼らの卒業礼拝の場面から、今日は3つのことに注目したいと思います。
<本論>
1、未完成な者たち 一つ目に考えたいのは、「未完成な者たち」ということです。
この場面にいる弟子たちが、未完成な人たちでした。先ほどお読みいただいたマタイによる福音書の箇所には、とても印象的な言葉が書かれています。「しかし、疑う者もいた」という一文です。復活したイエスを目の前にしたときに、そこに疑う人もいた。この言葉に、少し意外な感じがします。ここにいる弟子たちはおよそ3年間、イエスと一緒に歩いてきました。たくさんの奇跡も見てきました。教えも聞いてきました。わたしは死んでよみがえるということも、事前に聞いていました。そして今、その通りに十字架の死から復活したイエスを実際に目の前にしている。それでもなお、疑っている者がいるというのです。 聖書は、弟子たちを理想的な信仰者として描いてはいません。むしろ、彼らの弱さや未熟さを、とても正直に書いています。そもそもこの弟子たちは、つい少し前までどうだったかというと、あのイエスの十字架の場面に際して、弟子たちはその場から逃げてしまったのです。一番弟子と言われたペテロでさえ、3度も「私はあの人を知らない」と言ってしまいました。 イエスが一番苦しいとき、彼らは彼ら自身の弱さのゆえにその側にいることができなかった人たちです。その弟子たちが、今ここに立っています。信仰が完全に整った人たちではありません。疑いがない人たちでもありません。失敗のない人たちでもありません。彼らは、まったくの未完成の状態です。 それでもイエスは、そんな弟子たちに向かって語りかけます。「行きなさい。」。完全になってから行きなさい、ではありません。もっと信仰が強くなってから行きなさい、でもありません。疑いが全部なくなってから行きなさい、でもありません。未完成のまま、それでも「行きなさい」と言われたのです。 聖書を読み返してみると、神様に用いられた人たちは、みな最初は未完成でした。アブラハムも、モーセも、ダビデも。そして弟子たちもそうでした。 神様は、完成された人を用いるのではありません。むしろ、未完成な人を用いてくださるのです。なぜでしょうか。未完成であるからこそ、人は助け合わなければ生きていけないことを知るからです。未完成であるからこそ、自分の力だけでは足りないことを知るからです。そして未完成であるからこそ、そこに神が働く場所が生まれるのです。 皆さんも、これからそれぞれの現場に遣わされていきます。でも、「まだ自分は未完成だ」と感じることがあるかもしれません。もっと学びが必要ではないか。本当に自分でいいのだろうか。そんな不安を感じることもあると思います。けれども、神様は未完成な者を用いてくださいます。自分一人では未完成なままです。けれども、弱い自分を隠さないことによって、助けてもらうことによって、必要を備えてくださる神様に信頼することによって、未完成なところが愛によって満たされていく、そんなことを体験していきたいと思います。
2、事実としての祝福 二つ目に考えたいのは、「事実としての祝福」ということです。
未完成な弟子たちに向かって、イエスはまずこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」。この言葉は、弟子たちの力について語っているのではありません。イエスご自身の権威について語っています。 弟子たちは、強い人たちではありませんでした。信仰が完全な人たちでもありませんでした。疑いもある。弱さもある。失敗も経験している。しかしイエスは、最初から彼らの力を見て「行きなさい」と語っているのではありません。ご自分の権能、権威を見て語られたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。これは、とても大きな言葉です。天における、地上における、一切すべての権能。つまり、この世界のすべてを治める権威です。 ここで大切なのは、イエスがこの権能をどのように用いられるかということです。多くの場合、権能、権威という言葉を聞くと、支配する力を思い浮かべます。人を従わせる力。人の上に立つ力。しかしイエスは、この権能を使って弟子たちを支配しようとはされませんでした。むしろその逆です。この権能を持っておられる方が、弟子たちにこう言われるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。これが、イエスの権能の使い方です。 すべての権威を持つ方が、「あなたとともにいる」と言われる。すべての権能を「あなたとともにいる」ということのために用いる。これは命令ではありません。約束です。弟子たちは、未完成のまま、信仰もまだ揺れている。この状況で、イエスが彼らに語られたのは「もっと強くなれ」ではなく、「もっと立派になれ」でもなく、「わたしは・・・あなたとともにいる」と言われたのです。 ここに、事実としての祝福があります。それは、努力して手に入れる祝福ではありません。条件を満たして受け取る祝福でもありません。すでに与えられている祝福です。イエスがともにいる。それが、弟子たちの出発点でした。 この礼拝の最後に、チャプレンによる祝福の祈りがあります。卒業礼拝での祝福の祈り、それはここから皆さんが派遣され、遣わされていく、その皆さんお一人おひとりに事実としての祝福があるようにという祈りです。これから、それぞれの現場へと遣わされていくなかで、毎日が同じではありません。保育の現場で、楽しい日もあれば、大変な日も、思うようにいかない日もあるでしょう。自分の未熟さを感じる日があることでしょう。でもそのとき、皆さんが事実としての祝福を受け取っているということを思い出してほしいと思うのです。「わたしは、いつもあなたとともにいる。」、そう語りかけてくださる方がいます。それは、強い人のための言葉ではありません。未完成な私たちに向けて語りかけられている、祝福の言葉です。
3、約束が伴う派遣 さて、三つ目のことに目を留めてみたいと思います。
最後に心に留めたいことは、「約束が伴う派遣」ということです。
イエスは弟子たちに、こう言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての⺠をわたしの弟子にしなさい。」。ここで最初に語られている言葉は、とてもシンプルです。「行きなさい。」この言葉は、ただの命令のように聞こえるかもしれません。しかしここまで見てきたように、この命令は、祝福のあとに語られています。未完成な者たちに向かって、イエスはまず祝福を語りました。「わたしにはすべての権威がある。」「わたしはいつもあなたとともにいる。」そしてそのあとで、「だから行きなさい」と言われたのです。つまりこれは、祝福を受けた人が、その祝福を携えて出て行くということなのです。 この言葉をよく見ると、面白いことに気づきます。「弟子にしなさい」「バプテスマを授けなさい」「教えなさい」といった言葉はすべて、実は一つの言葉につながっています。それは、「行って」という言葉です。「行って」という言葉がメインであって、そこにほかのものがくっついている形の書き方になっています。まず、行くことから始まるのです。行くときに、人との出会いが生まれる。行くときに、関わりが生まれる。そこで初めて、出来事が起こる。もし弟子たちが、「まだ自分たちは未完成だから」と言ってそこに留まっていたらどうでしょうか。もし弟子たちが、「もっと自信がついてから」と言って動かなかったらどうでしょうか。ここで言われていることがらは、一つも起こらなかったでしょう。起こる可能性が生まれません。しかし、弟子たちは、未完成のままであったけれども、それでも歩き始めました。行ったのです。そしてその歩みの中で、神の働きが広がっていきました。 これからそれぞれの場所へと遣わされていきます。保育の現場に行く人。新しい場所で働き始める人。これから新しい生活が始まる人。その一歩は、きっと少し不安もあると思います。でも聖書は言います。祝福を受けた人は、そこから歩き始めることができる。未完成のままで、それでも歩き出すことができる。そしてその歩みには、必ず約束が伴っています。「わたしは、いつもあなたとともにいる。」
<結論>
最初に、「見てて」と言う子どもたちの話をしました。子どもが、「見てて」と言ってチャレンジして、例えばそれがうまくいかなかったとしても、親としては何も思いません。できなかったからといって、その子を残念に思うなんていうことはありません。次やったらうまくいくかもしれない、ということを楽しみにします。子どもたちは、そんな風に見守っている人がそばにいることで、安心して「見てて」と言えるのです。 私たちも、何かをするときに、「見てて」と言える存在があるということを心に留めていたいと思います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。その祝福を今日、受け取ってほしいと思います。受け取ったならば、私たちはいつも、その事実としての祝福の中にいます。どんなことがあっても、その祝福から外れることはありません。未完成でもともと、失敗してもともと。その未完成さが周囲にいる人々の愛によって、そして神様の愛によって埋められていくことを、祈り求めていくことができる。私たちに与えられているのは、そんな祝福です。私たちは、一人で遣わされて行くのではありません。「わたしは、いつもあなたとともにいる」そう語るお方とともに、皆さんはここから歩き始めます。どうかこれから、子どもたちの「見てて」という声に応えていくなかで、皆さん自身も「見てて」と言いながらチャレンジに向かっていくことができる、そんな働きになっていくようにと願っています。皆さんのこれからの歩みの上に神様の豊かな祝福をお祈りします。
