大阪キリスト教短期大学 子どもを愛する保育者を育てる

大阪キリスト教学院 大阪キリスト教短期大学 幼児教育学科

2021年5月27日チャペル・
坂西信悟先生(OMF宣教師)のメッセージ

 

「神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネによる福音書9章3節

〈何かが ”できない” 人に向けられる視線〉

 私が以前勤めていた幼稚園はキリスト教主義で、毎日クラスで礼拝を持ち、担任が聖書のお話をしていました。
保育の準備と合わせて、聖書のお話の準備をする必要があるので大変ではありましたが、ここに私の喜びがありました。
なぜなら、子どもたちに、聖書に書かれている神さまのことを、一人ひとりを愛してやまない神さまの「まなざし」を知って欲しかったからです。
今日、みなさんと一緒に聖書から神さまのまなざしを知っていきたいと願っています。

 ある日、イエスが弟子たちとともに道を歩いていると、生まれつき目の見えない人を見かけました。
彼は道に出て、物乞いをして、必要なものを施してもらいながら、生活をしていました。この人を見かけた弟子たちは、イエスに向かってこう尋ねます。
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 弟子たちの関心は「どうして彼の目が見えないのか?」ということでした。彼を見て、同じような疑問を抱いた人はこれまでにもいたことでしょう。
おそらく彼自身も、自問したことではないかと思うのです。「どうして私は…?」

 さらに彼は、周りの人からの視線によって、傷ついてきたことでしょう。
目が見えない、仕事ができないということによって、彼の存在を喜んでくれる人はなかなかいなかったのではないかと想像します。
それでも生きていくために、通りに出て、物乞いを続けていくほかなかったのです。

 世の中は、「何かができる」ということで、人の価値をはかろうとします。
しかし、人の価値は「何ができるか」ということによって本当に決まるのでしょうか?私にとって、この疑問は子どもの頃から抱えていたものでした。
というのも、私の弟は重度の自閉症、知的障がいがあって、いろいろなことができなかったからです。「どうして弟は…?」

〈神の業が現れるため〉

 私の疑問に答えを与えてくれたのは、イエス・キリストの言葉でした。 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 これが、生まれつき目の見えない人に対して、また私の弟に対して注がれていたイエスのまなざしだったのです。「神の業がこの人に現れるため」という言葉は、何を意味しているでしょうか?
それは、彼のいのちに価値がある、ということです。彼を通して神さまは素晴らしいことをされる。彼は神さまに愛されている。
これが神さまのまなざしです。そして、このまなざしは、この話に出てくる生まれつき目の見えない人に対してだけではなく、みなさんに、さらにみなさんがこれから出会う子どもたちにも注がれています。

〈あなたを支える 神さまのまなざし〉

 他の人が何と言おうと、神さまの目の前に、あなたは価値があります。愛されています。その証拠が、キリスト教会が掲げている十字架です。
イエス・キリストはあなたのために死んでくださるほどに、愛してくださったのです。

 これから皆さんが保育の現場に出て行くとしても、違った仕事に就くとしても、あなたを支える、この神さまのまなざしを知ってほしいと願います。
子どもたちは生活の全部を通して、たくさんのことを学んでいきます。同じように、キリ短で学ぶみなさんも、授業を通してだけでなく、学生生活全部を通して、たくさんのことを学んでいくことができます。
このチャペルのときを通しても、みなさんが大切なことを知っていくことができますように。